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ラジオ・チャリティー・ミュージックソン
愛称ミュージックソン、Mソン
ジャンルチャリティー番組 / 音楽番組 / ラジオの長時間特別番組
『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』とも、英: RADIO CHARITY MUSICTHON)は、ニッポン放送ほかNRN系のAMラジオ局11局が共同で24時間(一部地域を除く)放送するチャリティーラジオ番組。略称はミュージックソン。ラテ欄表記ではさらに短くしたMソン(エムソン)も使用される。
これまでは『チャリティ(ー)』のあとの長音表記にはブレがあったが、2020年頃からは長音表記なしの『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』に統一される傾向にある。 一部時間帯を除き、ほぼ全体を自社制作する企画ネット番組である。原則として毎年12月24日の12時00分(正午)から12月25日の12時00分まで生放送する。幹事局のニッポン放送では放送時間を固定しているが、後述するように編成により時間枠の移動や開始・終了時間を変更するネット局もある。 「目の不自由な方へ音の出る信号機を!」、「目の不自由な方へ通りゃんせ基金を!」、「目や体の不自由な方へ通りゃんせ基金を!」[注 2]を共通キャッチフレーズとして募金を呼びかけるとともに、放送を通じて障害者への理解促進と思いやりの育成を図る目的の下で、各地からの中継を交えながら放送している。 全国ラジオ・チャリティー・ミュージックソン実行委員会が主催し、ニッポン放送が幹事局、同社社長が実行委員会委員長をそれぞれ務め、内閣府・文部科学省・厚生労働省・国土交通省・警察庁・全日本交通安全協会・全国社会福祉協議会から後援を受ける。 ラジオ福島ではこれを国連が定める持続可能な開発目標(SDGs)活動と連動させ、「3.すべての人に健康と福祉を」「11.住み続けられるまちづくりを」に当てはめている。 ミュージックソン開始前の1975年(昭和50年)3月に近畿放送(KBS京都)が放送した『宮城まり子のチャリティーテレソン』が放送界におけるチャリティー番組の先駆けだが、これはテレビ番組であった。詳細は「宮城まり子のチャリティーテレソン#概要」および「かたつむり大作戦#概要」を参照 当時ザ・ビートルズの日本招聘などで活躍していたキョードーグループ創業者内野二朗は、音楽と社会の結び付きをアメリカの「レイバー・デイ・テレソン」から着想し、「メディアが、一年に1回ぐらい社会のために一日奉仕してもいいじゃないか。そこで、音楽をかけながら24時間募金を呼びかける、ミュージック・マラソン=ミュージックソンをやりたい」と在京のAMラジオ3局へ提案した[2][3]。これに対し東京放送(TBSラジオ)[注 3] と文化放送[注 4] の2局は「既に編成を組んでいる」「既存のスポンサーから苦情が来る」[4]などの理由を付けて内野の提案を拒絶。ニッポン放送だけが真剣に検討を始めた。「レイバー・デイ・テレソン#日本での翻案」および「24時間テレビ 「愛は地球を救う」#歴史」も参照 「ニニ・ロッソの音楽」をテーマ曲に、そのコンサートを目玉に据え、コンサート会場と放送を通じてそれぞれ聴取者に呼びかけて寄付を募る番組[4]を企画した。番組スタッフ側は「12月24日クリスマスの日にラジオが出来るクリスマスプレゼントとは一体何だろうか・・・?」というテーマで話し合い、前例がない画期的なチャリティーを目指し、当時は視覚障害者の主な情報源がラジオであることから、「耳で聞く、心で見るラジオなのだから、目の不自由な方のためになる放送を」という内容、主旨を「目の不自由な方へのチャリティー」、募金の使途を音の出る信号機を設置する、と明確に定め、さらには目の不自由な方を中心に、体の不自由な方々への理解の促進と思いやりの気持ちを育むことをも目指していくコンセプトを掛け合わせた[3]。細部について内野とニッポン放送で激論を交わしたのち、内野と関係が深い当時の制作部長が取り持ち両者が妥協した[4]。熟慮と困難を重ねて初代総合司会を萩本欽一に依頼し、萩本は“芸人”として制約を受けるチャリティーの仕事に悩んだが受諾した[2]。
概要
誕生の経緯